MJA物語 黎明期編

2006年度は、MJAにとって創立五十周年という記念すべき年でした。会の黎明期を振り返れば、まだ大東亜戦争の傷跡の深い時代ではありましたが、すでにこの地マヂソンで逞しく活躍する日本人達が居たのです。この歴史を埋もらせてしまってはならないという思いから、ウィスコンシン大学日本同窓会の御協力を得て、当時を知る方を訪ねてみました。

その方は奈良高(ならたかし)様とおっしゃり、マヂソン留学を経て、日本の医薬産業発展における指導的立場を果たしてこられた方です。突然質問攻めにするという失礼にも拘らず、奈良様は快く楽しくて興味深い当時のお話を沢山おしえて下さいました。また、素晴らしい文章にまとめ上げて下さいました。

会員のみなさま、どうぞ奈良様の生の文章をお楽しみ下さい!(聞き手:海津雅彦)

Q. どんないきさつで、どんな方々の手により、会は立ち上がったのでしょうか?

1956年、平井秀松先生を会長に先生を囲む数人の人たちで立ち上がりました。医学部、農学部の生化学や遺伝部門に日本人留学生が多かったので何とはなしに仲良しクラブ的に会を創設。

しかしその前から、富田謙吉さんを中心とした小人数の集まりがあった。富田さんは生化学・エンザイム・インスティチュートの助教授で、既に1951年からマディソンにおられ、いわば当地のぬしで、当時の多くの日本人は色々とお世話になりました。1965年に帰国され、京都大学薬学部の教授になられた。奥様も夫君共々14年の長きにわたりマディソンにおられた。

平井先生
1956年から1959年まで在マディソン。医学部生化学のDr.ハロルド・F・ドイチェの研究室。当時は東大医学部の助教授、のち北大教授。電気泳動を開発し、さらに肝臓ガンなどの主要マーカーであるアルファフェトプロテインの発明者として有名。柔道の大家で、マジソンのテレビに柔道講座で出演された。1991年逝去。奥様のさち子さんは56年から半年マディソンにおられた。

先生を囲む数人は:

  • 高橋等 医学部Tumor ClinicのDr.ジェームス・M・プライスの研究室。現在、熊本大学医学部名誉教授。
  • 力丸光雄 農学部生化学のDr.スタウファー教授の研究室。現在、岩手医科大学医学部名誉教授。
  • 稲神馨 医学部マッカードル・インスティチュート。日本では九州大学教授、その後、カルピスの常務、研究所長。奥様、敦子様もご一緒。
  • 吉田昭 農・生化学のDr.ハーパー研究室。現在、名古屋大学名誉教授。奥様、静代さんもご一緒で農・家政学部。
  • 吉田実 農・生化学のDr.ハーパー研究室。農林省研究所に戻る。
  • 千葉廉 物理学専攻。
  • 奈良高 農・生化学のDr,M.J.ジョンソンの発酵生化学教室。協和発酵。

さらに会に加わったと思われる人々は:

  • 片山剛 三菱化成
  • 柴田幸雄 医・生化学、愛知医科大学名誉教授
  • 平泉雄一郎 遺伝学、2003年逝去
  • 佐々木夫妻 農学関連、東大農学部図書館、お二人とも逝去
  • 野口祐一 農。生化学、協和発酵、ロッシュ
  • 二宮和彦 高分子レオロジー
  • 佐藤清夫 医・生化学、エーザイ
  • 飯野徹男 遺伝学、東京大学名誉教授
  • 萩原夫妻 阪大教授

そのほか、Dr.ブロンヘンブレナー教授(地理学or経済学)が本日本人会の顧問役でした。奥様は日本人。富田先生も顧問役。因みに、日本人の妻を持たれる現地の人にDR.ガース教授(社会学科)がおられた。

Q. 当時の会の名はなんでしょうか。

「ウイスコンシン大学日本人会」というような名前でした。

Q. 当時は何人ぐらい会員がいましたでしょうか? すべて日本人でしょうか。

記録がないのではっきりしませんが、おおよそ20人から30人の間でしょうか。当時は圧倒的に理科系の人が多く、特に医や農の生化学、遺伝学の留学生がこの会の中心でした。我々の目の届かない文系の人は少なかったと思います。トータルの日本人留学生は40人前後ではないかと思います。当会には非日本人は一人もいませんでした。

Q. 奈良様がマディソンにおられた正確な年代と、その間の会員人数の変遷はどの様でしたでしょうか。

私は1956年8月から1958年8月までマディソンにいました。その間の人数の変遷は分かりません。記録がないので。でも1959年以降は徐々に増えていったんじゃないでしょうか。

Q. 当時はどんな活動や行事をなされていたでしょうか?

対外的に大きなイベントとしては、ユニオンの中にある舞台付きの大会場で日本人会としてデモストレーションをしました。趣旨は日本文化の紹介で、10人ぐらいで輪になって「炭坑節」を歌いながら踊ったことを覚えています。浴衣姿も何人かいて。これは平井会長の命令(?)だったと思います。ほかに何をしたか覚えていません。記録も残っていませんので。

このほかは日本人会内々の活動です。デビレスレークやウイスコンシン・デルズへピクニックで出かけたり、早石修先生がNIHからマディソンへ来られ生化学科の講堂で講演会があったとき、その後、日本人有志だけ集まって早石先生を囲んで懇親会を設けたり、さらに平井先生の奥様(さち子さん、俳句の大家)の主宰で句会を開いたり...などが思い出されます。

その句会のとき(1956年)の4句(実際は川柳)をここに紹介します。奥様から今回、その句が掲載されている俳句雑誌「萬緑」を送って戴きましたので。

  • 「すきやきでないすきやきに舌づつみ」
  • 「しりもちやたち上がってからウップス」(woops!は「オット!」とでも訳す感投詞。平井奥様の作)
  • 「アメリカの乞食に金をやってみる」
  • 「チョンマゲをなぜとってきたと教授云い」

なお、マディソンの大学全体の組織として外国人学生の集まりがあり、その行事に日本人会から有志が参加したりしました。

私の経験ではダンスパーティーと帝国ホテル設計で有名な世界的な建築家フランク・ロイド・ライトの自宅、工房訪問があります。1957年だったと思います。ライト氏は我々外人留学生を快く自室に招き入れてくれました。90歳の高齢の体を深々としたソファーに身を沈め、我々との会話ははずみました。その周りの壁にはいくつかの浮世絵、そしてテーブルには博多人形があり、彼の日本びいきを物語っていました。彼と学生との間の質疑応答のなか、彼の人生哲学の一つが堂々とした口調で披露されました。

When you think of how to do it, you have lots of trouble. When you do it, you have no problem.

この言葉はまさしくアメリカン・プログラマティズを象徴するものでしょう。ライトの家はマディソンから西へ一時間以内のSpring Greenにありその工房では日本人が何人か勉強していました。このあと2年くらいでDr.ライトは92歳で亡くなりました。私にとってDr.ライトとの面談は、私の2年間の留学中で一番心に残る良き思い出です。

Q. 当時の会費の額など、ご存知でしょうか。

会費は全然とっていませんでした。

Q. 当時会長の名前をご存知でしょうか。またその会長が努められた正確な年代をご存知でしょうか?

既述のように平井秀松氏で、1956年から2年間余り。そのあと(1959年以降)は小野先生(農・生化学のDr.バリスの研究室、九州大学教養学部教授)が引き継がれました。

Q. 対日感情、ノイローゼ、WARF

対日感情
私にも不愉快な経験があります。1956年、日本からマディソンに着いて早々、下宿探しをしました。あるエリアの個人宅で私の顔の色を見て断られました。結局、最後は黒人や中国人のいる汚い下宿屋に落ち着きました。ユニオンのすぐ近くでした。でも何年か後、マディソンを訪れたとき日本人の数が随分と増え、そしてその人たちがマディソンの高級住宅地などに住んでいるのを見て感無量でした。

また、ミルオーキーに野球を見に行ったとき、男子用便所の便器に「ジャップ」という落書きがありました。それにひっかけるようになっていたのです。

でも、総じて大学のキャンパス内では不愉快な思いは一度もしたことがありませんでした。私のボスを始め研究室の連中とその家族、マディソンの一般の人たち皆、人がよく親切で、本当に愉しい2年間を過ごすことができました。

ノイローゼ
早石先生も「私の履歴書」に触れられていますように、日本人留学生にノイローゼになった人たちが何人かいました。エンザイム・インスティチュートに留学中のある日本人は、ある日真夜中に就寝中の私を起こして、眠れないから一緒に寝かせてくれと言われ同衾(?)したことがあります。この方はこの後すぐ帰国したようです。

また、生化学のある研究室でこういうことが起こりました。厳しいボスとの接触その他で強度のノイローゼになったある日本人留学生はウイスコンシン・ジェネラル・ホスピタルに入院しました。でも病気は良くならず、日本へ強制送還されたそうです。

WARF
1956年〜1958年のころは当大学は生化学部門が全米の中でも屈指の優れた研究で知られていました。日本からここマディソンにたくさんの留学生が来ていたのもうなずけます。その業績はビタミンDの発見、ペニシリン生産技術の進展、ビタミンDの活性型の発見...等々がWisconsin Alumni Research Foundation(WRAF)を生み出し、その後、雪だるま式に増えた資金がこの方面での研究の進展に更なる拍車をかけたといえます。その結果、微生物遺伝学や分子生物学が更に進展し、Dr.レーダーバーグDr.コラナのようなノーベル賞受賞者を生みました。

そして1998年にはウイスコンシン大学医学部のグループが世界で初めてヒト胚性幹細胞(Embrionic Stem Cell)を発見し再生医療への道を開きました。この発見でさらなるWARFの拡大が見られるようになったのではないでしょうか。

最近、日本では大学での革新的技術情報を企業に移譲するために、大学から企業への特許権の実施許諾などに関与する機構として方々の大学にTLO(Technology Licensing Oraganization)が設立されました。このTLO設立にはウイスコンシン大学のWARFを参考にしているようです。

Q. その他

思い出すままに当時(1958-1958年)のマディソンを描写してみます。

今あるかどうか分かりませんが、方々に「レンネボーン」というドラッグストアがありました。買い物以外にそこでよくスタンドに坐りコーヒーやアイスクリームを口にしたものです。スーパーマーケットでは市内にいくつか「エイ・アンド・ピー」という店がありました。汚い下宿で自炊していた私はよく一人でそこへ買い物に行きました。農・生化学のビルの中では、日本人留学生が多かったのでよく廊下などで顔をあわせて情報交換します。あるとき、この「エイ・アンド・ピー」にイカが入ったという情報をキャッチ、生の魚に飢えていた私は買い求めて家で刺身にして食のホームシックを癒したことでした。

食のホームシックといえば、当時マディソンでは一軒、日本食の素材を売っているところがありました。よく醤油を買ったものです。自炊して日本食的なものを食べていましたが、時たまキャピトルの近所にあった中華料理店で焼きめしを食べに行きました。店の名前は忘れましたが。今は日本料理店もあるようようですね。

また、農・生化学のビルの道路を隔てたすぐ前に「ヘスティー・テスティー」という小さなバーがありました。そこは私や研究室のサケ飲みの溜まり場で、実験が夜遅くまで続くときなど、生ビール大瓶を一杯ひっかけては実験したものです。飲酒運転ならぬ飲酒実験というところでしょうか。こういう実験のデーターは当てになりませんね。ビールがキャンパス内で飲める大学は、当時アメリカではカリフォルニア大学とウイスコンシン大学だけといわれていました。

映画を時々見ました。「ユニオン」に小さな映画館がありました。そこで日本映画「金色夜叉」を見ました。日本語をしゃべり、下に英語の訳が出ますが、肝心の熱海の海岸での有名なセリフ、「あの月をこの涙で曇らせて...」の英訳「That moon...by my tears.」では全然、熱海の海岸での有名シーンの雰囲気が出ていませんでした。

ほかにマディソンの市内にあった映画館で2回、日本に関連した映画がありました。「The Bridge on the River KWAI:戦場にかける橋」(クワイ川マーチで有名、早川雪舟出演)」と「The Teahouse of the August Moon」(マーロンブランド、京まち子主演)でした。

私にとって、ともかくも愉しい有意義な二年間でした。研究室にいた20人近い仲間との交友も素晴らしかった。その中の何人かとは今でも色々と交友が続いています。その研究室には、日本へ戦後のGIとして軍地勤務していたのが二人いました。その一人が1958年でしたか、ある日その日の新聞を持って私のところへふっとんできました。何をせきこんで報告するのかと思えば、日本で赤線が完全に廃止されたというニュースでした。彼も東京駐在中そのような所にお世話になったのでしょう。

ウイスコンシン大学とコーネル大学はアメリカで最も美しいキャンパンスをもつ双璧といわれていました。ウイスコンシン大学の場合は、レーク・メンドータがキャンパスの美景に一番貢献しているでしょう。実験や勉強に疲れた時など、よく「ユニオン」とメンドータ湖の間にあるベンチに坐って湖を眺めていたものです。

バスコン・ホールのかなり上に「スピーチ・クリニック」という小さな部屋がいくつかありました。言語学部の生徒たちが外国学生などの英語を矯正する場所です。私もその矯正を受けました。私の担当者は言語学部2年生ぐらいの女子学生でした。大きな鏡の前に坐らされ、彼女が箸のような棒を私の口の中に入れ舌の動かし方を教えるのです。日本人に不得意なLとRの発音の違いを矯正してくれるのです。このレッスンのことを私のボスのジョンソン教授に話したら、彼はその後時々、私の名前を発音し、今言ったのはnaraかnalaかと質問し私をからかいました。

私は生化学科の修士コースをとっていましたので所属研究室でのリサーチに対しては給料が払われていました。ハーフタイム・リサーチ・アシスタントシップとして135ドルの月給を貰っていました。これで十分に毎月の生活費「下宿代、食費、その他必要経費など」を賄っていました。それどころか、その中から若干のタックスを払っていました。帰国後、しばらくして2年間のタックス総額が返ってきました。その額は、当時会社から貰っていたボーナスの額より多かったのには驚きでした。一ドル360円の為替レートのおかげです。

以上。(奈良高)

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